「インド中国仏教史」

2021年(令和3年)923() 午前11時 会場:弘宣寺 本堂

弘宣寺 住職 八村弘昭(やつむら ひろあき)

 

インド仏教の歴史

 

1、お釈迦さま以前のインド

 

 インドの文化をつくる上で中心的な役割を果たしたのはアーリヤ人だった。紀元前1500年頃にインドに入ってきて、インダス文明の人々を征服していった。そして「ヴェーダ」という宗教を作った。この宗教は多神教で、自然の現象、威力などを神格化したものだった。紀元前1000年頃には小さな村を作って司祭者を中心とした部族性の農村を作り、文化を発展させた。後の時代のインド文化の特徴となる制度は、ほぼこの時代に作られた。宗教儀式を間違いなく行うために専門的知識や訓練が必要とされて、司祭者の階級が作られた。部族の勝利と福祉を願う儀式が大切にされ、司祭者階級の地位が高められ、神に等しい存在だと見られていた。敵の攻撃を防ぎ、行政を担当し、兵士を統率する王族も独自の階級を作り、農業・酪農・工芸品などの仕事をする人たちは、司祭者、王族の下で、庶民階級を作った。この他に、原住民は奴隷として扱われた。ここにカースト制度が成立した。ヴェーダの宗教は、宇宙の根本を「ブラフマン」だと考え、自分の中心にあるものを「アートマン」だと考え、この二つは同じものだと考えた。宇宙の根本のブラフマンからすべての存在が生まれて、変わっていくと考えた。そのために自分の中心にあるアートマンを解放するために、ヨガをした。前世の業によって現在が決まり、現在の業によって未来が決まるという輪廻転生の考え方を生み出し、後の時代のインド人の考え方に大きな影響を与えた。このようにお釈迦さまが生まれる前から、インドでは高い文明があり、宗教的な考え方があった。

 

2、お釈迦さまと当時のインド思想

 

 アーリヤ人は、インドの内側へ攻めていく中で、一部は原住民と子どもを産み新しい民族を生んだ。この新しい民族は都市をつくって部族社会から階級社会へ移るにうちにアーリヤ人の伝統のヴェーダの宗教や慣習にこだわらないようになって、仏教などの新しい宗教が生まれる環境が作られた。原住民は、政治的、経済的、文化的に支配され、社会の一番下として扱われたが、自分たちの宗教的文化を持ち続けていた。この人たちの宗教をバラモン教が吸収して変わっていったのが、後の時代のヒンズー教である。アーリヤ人が勢力を拡大する中で、部族間の対立や統合が行われ、独裁権を持つ王がいる王国ができた。お釈迦様が生まれたのは、このような時代だった。ガンジス河の近くは農業が中心産業で、農作業をする耕作民と地主が現れ始め、物が豊富になると共に、商工業が盛んになり都市が発展した。商工業者は組合を作り、組合長や大地主は長者として栄え、国王などとも密接な関係を持つようになった。このように政治的にも経済的にも大きな変化が生まれて、司祭者の権威は弱くなり、ヴェーダの宗教の影響も弱くなっていった。当時のインドには、バラモンと沙門(しゃもん)という二つの宗教グループがあった。バラモンはヴェーダの司祭者。沙門は家を捨てて食べ物を恵んでもらう生活をして、禁欲生活を送り、森へ入り瞑想をして、強烈な苦行をして、人生の真理を悟ることを願った。この二つを批判したのが仏教だった。仏教とは、ブッダ(仏陀)の説いた教えのことを言う。ブッダとは「目覚めた人」という意味である。お釈迦さまという言い方は、釈迦族の出身だからである。釈迦族は、コーサラ国に従いながらも、ヒマラヤ山脈、ネパールのカピラヴァストを中心に農業、酪農をして、共和制の小国家で、国のことはすべて会合によって決定し、実行は執政に任せられた。お釈迦様の父親は、その執政であった。お釈迦さまの誕生は紀元前五世紀半頃と思われる。お釈迦さまの子どもの頃の名前は「シッダールタ」と言い、母親はお釈迦さまが生まれてすぐに死んで、母親の妹に育てられた。成人してから結婚して子どもを一人もうけた。しかし、地位や名誉や家族や財産の中に自分の苦しみを解決する方法が無いことに気づいて、29才の時にすべてを捨てて沙門になった。最初に二人の師匠を持ったが苦しみが無くならないのでその師匠から去り、次に苦行をしたが真実の道では無いと感じてやめた。そして瞑想をして深く考えて、悟りを得た。35才のことだった。このお釈迦さまの悟りが仏教の根本である。悟りを開いた後、お釈迦さまは苦行を一緒にした5人の修行者に教えを説いた。これが仏教教団の始まりである。教団に入るのは最初は男性しか認めなかったが、女性も認めるようになった。お釈迦さまは、悟りを開いてから死ぬまでの45年間、雨期の期間を除いて各地を巡って教えを説いた。国王をはじめ、たくさんの人々が出家をしたり、信者になった。80才の時、お釈迦さまは死んだ。

 

3、初期仏教教団と仏教思想

 

 仏教教団は、僧伽(そうぎゃ)と呼ばれた。お釈迦さまの教えを理解し実践する人であれば、社会的な階級や貧富や性別に関係なく受け入れた。先に出家した者が長老として尊敬され、知識の豊富な徳のある修行者は尊者として大切にされた。教団は出家の弟子と、出家していない信者からなった。お釈迦さまや弟子たちが教えを広める中で、教団は各地に多数できた。教団に入る時は最初は儀式が無かったが、教団が大きくなると儀式をするようになった。たくさんの雨が降るインドの雨期の三ヶ月は、教団は教えを広めることができなく、雨を避ける場所を必要とした。乞食の可能な町や村の近くに住んだ。やがて食糧をまとまった形で寄付する者が現れるようになると、雨を避けるための一時的な場所だった住みかが一年を通して住む場所に変わっていった。教えを広めるために各地に出向く形から、一カ所で集団生活をする教団へと変わっていった。教団には守るべき決まりがあり、男性は250,女性は348もあった。初期の仏教思想を表したものに、「すべてのものは移り変わる(諸行無常)」、「すべてのものには実体が無い(諸法無我)」、「悟りが絶対の静けさであること(涅槃寂静)」の三つがある。

 

4、経典の編集

 

 お釈迦さまは自分が死んだら教団は教えをよりどころとして努力精進することを弟子に伝えたという。しかしお釈迦さま自身が教えを文字に残すことは無かった。お釈迦さまが死ぬと、早くも教えを無視し教団を乱すものが現れたので、500人の弟子が集まって教えとルールを文字にすることにした。やがて教団の中で伝統的な考えと新しい考えが対立し始め、お釈迦さまの死後100年ぐらいに2回目の教えやルールを文字にすることが行われた。しかし、新しい考えをする人たちは自分たちで「大衆部」を作り、伝統的な考えをする長老たちは「上座部」と呼ばれ、仏教教団が二つに分裂した。

 

5、アショーカ王と仏教

 

 ギリシャ、マケドニアの王アレクサンドロスはペルシア帝国を倒した後、インドに攻めてきた。しかし部下の反対とケガのためインドから手を引き、3年後に死んだ。この時にインド人は驚き、ギリシャ人との触れ合いはインドに大きな影響をおよぼした。インド最大の帝国を築いたのはアショーカ王で、戦争の悲惨さにイヤになって仏教に入った。武力による政治から、法による政治へ変えた。法が守られれば、国内の平和と秩序、人々が利益と心の穏やかさを手に入れられると教えた。仏教以外の宗教も認めて、平等に保護した。アショーカ王は、各地に仏教を伝えて、仏教の発展に協力した。

 

6、仏教教団の分裂と部派仏教

 

 分裂した仏教教団だが、ルールの意見の違いがお釈迦さまの教えへの意見の違いになり、中で対立していった。教団は分裂を重ねて、大衆部は8部に、上座部は10部に別れた。これを部派仏教と言う。各部派は独自のルールを持った。お釈迦さまの教えを文字にした経典も、部派ごとに独自に持っていた。部派仏教時代の教団は、教えを伝えるよりも研究を大切にして、乞食生活は失われ、有力な後援者を得て経済的に安定し、厳格な出家主義をとった。これに対してお釈迦さまの根本に戻り、人を助けることをがんばるという運動が起こった。これが大乗仏教運動である。お釈迦さまが死んでから、時間がたつにつれてお釈迦さまの人格を理想化して考えるようになった。その偉大さは人間としての一生の間の修行のみのものでは無く、過去世からの徳の集まりだと考えるようになった。仏像が作られるようになるとお釈迦さまは礼拝の対象になった。

 

7、大乗仏教の興隆

 

 大乗とは「偉大な、優れた乗り物・教え」という意味である。人を助けることを実践する人たちだった。大乗仏教は、部派仏教を「自分だけを助ける」と言って、「小乗(劣った乗り物・教え)」と呼んだ。はじめ、大乗仏教の人たちは整備された教団も無く、盛り上がる大乗仏教運動を背景に信仰に価値を認め、文学的表現を駆使して初期の大乗仏典を生み出した。大乗仏教経典に書かれたお釈迦さまの性格は、歴史的人間としての理想化では無くて、目に見えない精神的活動を表したものであり、その悟った真理の働きを見える化したものだった。2世紀頃までにできた初期大乗仏教経典は、代表的なものに「法華経」、「無量寿経」などがある。

 

8、仏教の密教化と滅亡

 

 4世紀の初め、グプタ王朝ができてインド全体を統一した。仏教は宗教上の寛容政策のおかげで発展した。王の援助でナーランダー学問寺ができて、インド仏教の教学的な中心地として大乗仏教の発展に貢献した。しかし学問的な仏教は、専門家の間にしか通用しないものになっていった。人を助けるという初期の大乗仏教運動は忘れられ、インドの仏教は人々から離れていった。そして仏教は衰退していった。仏教は「秘密仏教」という密教に変わっていった。真言を唱え、心を統一し、仏に供養すべきと主張し、曼荼羅に仏を置いて、儀礼を行った。7世紀中頃に密教はできた。密教はヒンズー教から影響を受けたので、影響を受ける度にヒンズー教との区別がつかなくなっていった。12世紀後半から13世紀にかけて、イスラム教のゴール王朝が北インドを征服し仏教を弾圧したため、仏教徒はチベットやネパールに逃げた。そして仏教はインドの中から消えて無くなった。

 

 

中国仏教の歴史

 

1、仏教の伝来

 

 紀元前221年、国家を統一した秦(しん)の始皇帝は、思想界の統一を計った。次の前漢・後漢の時代は儒教を国の宗教として定め、儒教によって国家社会制度や秩序、論理道徳を作った。国から閉め出される形になった道教だが、民衆の間に普及した。中国に仏教が伝わったのは、前漢の時代。インド・中央アジアからローマを結ぶシルクロードができて、文化が貿易商人たちによって伝えられた。経典が中国に伝えられると、中国語に翻訳した。記録の保存を大切にする中国の人々は、後に、中国語に翻訳した経典によって中国の仏教を完成する。

 

2、魏晋時代の仏教

 

 後漢が滅び、三国時代・西晋時代にかけて中国の社会と思想界は変革期を迎えた。魏を作った曹操は、呪術や神仙術を禁止した。当時の仏教の僧侶は戒律(ルール)を守った生活をせず、世間の人との違いは髪を剃っているかだけだった。インドから来た僧侶が戒律を中国語に翻訳して、戒律を守った生活を始めた。魏の司馬炎は王の座を奪い取って国の名前を晋として、呉を滅ぼして統一したが、北方の胡族によって滅んだ。その後、五胡十六国時代になり、晋の一族は江南の健康に移り、東晋という国を作った。この健康へ移動するまでの五十数年間を西晋という。西晋の都の洛陽は後漢以来、仏教が盛んだった。この時代、インドの経典を中国語に翻訳する人は12人、600巻の経典を翻訳し、180カ所に寺を建て、3700人の僧侶がいた。東晋の時代になり、健康に移った有識者は仏教に親しんだ。多数の経典の翻訳が行われ、漢人の知識者層へ仏教が伝わった。経典を翻訳する時に、道教の言葉を使ったので、中国の人たちに仏教を道教と同じだと勘違いさせることになった。この方法は仏教を理解させるためには意味があったが、仏教側から言えば妥協だった。しかしこれでは仏教の本当の意味を失わせると危機感を持った僧侶が道教の言葉を使うのをやめた。経典の翻訳が進行し整備されつつあった当時の中国仏教界であったが、戒律の翻訳がまだそろっていないので法顕(ほっけん)という僧侶がインドに向かって手に入れて帰国した。

 

3、五胡諸族の仏教受容

 

 4世紀前半頃から晋を江南の地へ南下させ、江北を占拠した五胡諸族は、おおよそ十六国だった。彼らは遊牧民であり、組織的な文化や宗教を持たず、仏教に関心を持っていた。胡族の王は仏教の僧侶を歓迎し、政治に助言を求めて、仏教は王と直接に結びつくものになり、その国と運命を共にした。中国では、インドで1000年近くの期間に発達した小乗・大乗の経典が成立順序に関係なく翻訳された。仏教が中国人の宗教となったのは南北朝時代以後といわれる。

 

4、南北朝時代の仏教興隆

 

 江南の東晋は420年、部下の劉氏に滅ぼされ、劉氏は宋という国を作り、以後、斉(せい)、梁(りょう)、陳(ちん)の滅亡までを南朝と呼び、華北の胡族より出た北朝と対立する。その間約160年、北朝系統の隋が両朝を制するまでの時代が南北朝である。北朝では、北魏が西魏・東魏に分裂し、西魏は北周に代わり、東魏は北斉に代わったが、北斉は北周に滅ぼされ、北周は隋に滅ぼされた。隋は南朝の陳を滅ぼして南北を統治するに至った。南朝の仏教が盛んだったのは、王や有識者の仏教への興味が大きかった。南北朝の仏教で重要なものに禅宗がある。

 

5、隋唐時代の仏教

 

 隋は約30年間で滅び、唐の時代となる。隋唐時代の仏教は、仏教研究が実を結び宗派が誕生した。隋では天台宗、唐では浄土教・法相宗・華厳宗・禅宗・密教ができた。隋は短かったが仏教は発展した。隋は国を治める基本を仏教に求め、仏教信仰の中心として各地に寺を建て、仏像を造り、経典を書写させ、人々に出家を許し、法律よりも仏教を大切にした。唐の時代には西遊記の三蔵法師のモデルの玄奘という僧侶が一人でインドに行って仏教を学び、インドの経典を中国にたくさん持ち帰ってたくさん翻訳した。中国へ仏教が伝わって数世紀がたつ中で、人々が関心を持ったのは、因果応報の考え方であった。中国の人々は現世のみに係わった人生観を持っていたが、自分の行為の影響力は三世に渡って因果応報であると知らされた。そして人々は寺や仏像を造り、写経をして、無病息災・現世利益・極楽往生を願った。仏教本来の教えを説くことよりも、現世利益的立場から仏教に関心を持った。

 

6、宋以後の仏教

 

 960年に宋の太祖が開封に都を定めて即位し、以後1127年までが北宋である。北の金国によって滅亡したが、一族の高宗が南へ逃れ、宋王朝を建てた。これが南宋であり、宋は前後320年余り君臨した。宋の仏教は歴代王の保護を受け、仏教復興が進められ、教団の勢力は唐以上にも拡がった。中国の仏教は実践的な方向に進み、禅宗や浄土教が盛んに行われた。最も繁栄したのが禅宗であり、臨済宗が活躍した。

 

7、融合仏教の出現

 

 蒙古族は13世紀後半に宋を滅ぼして元を建国して中国を支配したが、14世紀後半に漢民族から興った明(みん)は以後274年間中国に君臨し、その後17世紀に満州族から興った清が以来268年間中国を支配した。チベット仏教は8世紀に成立した仏教の一種である。元に大切にされた。元の仏教はチベット仏教であると言われるほど中国に深く根をおろし、元に代わって君臨した明も保護した。清もチベット仏教を大切にした。中国では宗教が民間に浸透するにつれて、民衆の信仰を扇動して宗教一揆を起こす事態を生んだ。元が滅んだ直接的原因は、宗教一揆であった。明は仏教を尊重し保護したが、同時に教団を押さえ込んだ。清の時代に仏教は衰えていき、1911年に清が滅んで中華民国が成立した後は、仏教はますます衰退した。太平洋戦争後、中華人民共和国が建国されたが仏教の衰退は変わらなかった。

 

 

 

以下の本を参考にしました。

 

「インド中国仏教史」(中央仏教学院。本願寺出版社。1200円)


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